狩猟採集について

  狩猟採集について文明人の見解は残酷、の一言であろう。

  アボリジニは完全に狩猟採集民族であるから、毎日村の人口を補うだけの動物を狩りし、解体して食べている。大体ジュゴン、カンガルー、海がめ等大型動物一匹で4〜50人が食にありつける。その他は魚、鳥、蟹、トカゲ、木の実、ヤム芋などで補い自然界の生態系のバランスを保っている。完全に自然界に依存している彼らにとって自然界のバランスの乱れは自分達の生死に直接関わってくるからである。

  そして、狩られてきた動物を目の前に人々は大喜びで解体する。

  しかし、文明人は動物の解体をただ残酷として捕らえていいのだろうか?

  文明社会生活の中で日ごろ食べられている食肉についての事を考えた事があるだろうか?

  経済流通の中で食肉用として扱われ、殺され骨や内臓は食べられも埋葬もされず無残にゴミとして捨てられる。そしてそれを請け負った屠殺業者に文明人が残酷行為と呼んでいる解体を一挙に押し付け、殆どの人はスーパーでパックに詰められた清潔とされている肉をお金で買う。そして食肉を屠殺している人々の事を殆どの文明人は知らない。

  これは残酷と呼ばないのだろうか?

  少なくともアボリジニの人々は自分達の食べる肉がどういう過程で成り立っているのか知っている。そしてそれを最大限の喜びを表現する事で弔い、頂き感謝の歌を歌う。そしてその獲物をが取れる場所、自分達が狩りをするべき場所についてまでも詩を歌い、その獲物にたどり着く過程までも神聖なものとして認識しているのだ。先にも述べたドゥア半族が槍投げ器を意味し、イリチャ半族が槍を意味する事から解かる様に、陽である槍投げ器(槍の末尾の窪みに引っ掛け梃の原理で槍を投げるために槍投げ器の先には凸があり男性の働きである)と陰である槍(末尾に槍投げ器に引っ掛るための凹があり女性の働きである)が合わさる事によって獲物が獲られる。つまり獲物は新たな生命を意味しているのである。

  彼らは生きることが多くの命の上で成り立つ事を心底熟知し、また命を産み出す原理に関しても熟知している。弔い方のエキスパートであり、祈りのエキスパートでもある彼らは文明人が経済社会の発展と引き換えにしてしまった「存在の意味合い」と言う大事なものを護り続けている。

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