アボリジニとミッション時代と土地問題
20世紀にはいるとキリスト教会はまだ手付かずだった北部地域へとミッションを展開していく。それに伴い政府もアボリジニの保護政策を進め1892年に初めてノーザンテリトリーで保護区を設定する。
そして1911年にノーザンテリトリーは連邦政府の管轄下におかれノーザンテリトリー州となり、多くの文化人類学者を集め、アボリジニの研究を始めていく。
キリスト教は果敢な布教の夢を持ち、ジャングルの奥地へと進みいたるところにミッションを建設し、キリスト教を広めていった。アボリジニ達は侵略者の宗教であるにも拘わらずキリスト教の精神を自分達の中に受け入れ、自分達を操ろうとしている白人さえも受け入れていく。そしてその様な精神性が人類学者や生物学者を味方につけていき、アーネムランド保護区が指定される。
第2次世界大戦が始まり、アーネムランドも戦争に巻き込まれていく事になる。戦後はアボリジニに対して政府は同化政策をとることになったが、1960年代にはアボリジニによる大きな権利の主張、土地返還運動が勃発し始める。
その先駆けが1965年のチャーリー・パーキンスを代表とした30名の学生の組識S・A・F・A(Student Action For Aboriginal)が起こした有名なフリーダムライド運動である。この運動は
1・アボリジニの生活における基本的な問題(住居、教育、健康)を世間に知らせること。
2・社会的差別を無くすこと
3・アボリジニ問題に対する関心を高めること
をコンセプトに掲げ展開されていった。パーキンスには青春時代にイギリスのプロサッカーチームで活躍していたり、シドニー大学に在籍していたりと白人社会に受け入れられやすい実績があったため多大な成功を収め、1967年には憲法改正を実現させ、アボリジニの市民権を勝ち取った。
土地返還運動の方では、1966年に起こしたグリンジ族のストライキ。牧場経営をしていたべスティ社を相手に最初は賃金の引き上げと、労働条件の改善を要求していたが、次第にそれは土地返還の要求へと変わっていった。
1968年にアーネムランドのイルカラのヨルング族が起こしたゴーヴ半島訴訟。ナバルコ社が経営するボーキサイト鉱山によって聖地が破壊されることを懸念したヨルング族は1963年に樹皮にかかれた「交渉の欠如、聖地の破壊、鉱山借地の調査」を主項目とした請願書を政府に送った事を皮切りにこの訴訟は始まったが1971年に敗訴。
しかしこれらの土地返還運動はオーストラリア全土、世界中にまで波紋を呼び、1972年にはノーザンテリトリー州でウィットラム政権が成立し、首相はアボリジニの本格的な調査のため先住民族土地権特別調査委員会を組織した。委員会はアボリジニの伝統回帰のための新規立法措置を唱えたウッドワード報告書を提出した。ウィットラムは連邦政府により解任されてしまうが、次のフレイザー政権でアボリジニ土地権法(Aboriginal
Land Rights Act)が成立し、アーネムランド全域をあわせたノーザンテリトリーの約7.3%の土地が形式上完全にアボリジニに返還された。
その後の代表的な訴訟は1982年のトレス海峡の島についてコイキ・マボとミリアム人が土地、海、珊瑚礁の伝統的所有権を巡って、クイーンズランド州に対して起こした訴訟である。この訴訟はアボリジニの固有の宗教概念と生活様式が特定の土地と密接なつながりを古来から持っているということが認められた。そして1788年以降続いた「テラ・ヌリウス(無主の大地)」の概念が払拭され、1992年原告側の全面勝利となり、「マボ判決」として世に知れ渡った。このマボ判決では古来からの土地のつながり(先住権原)を国家が認めたということで革新的な判決であった。そして、翌年の1993年に先住権原法が可決され、土地権、生活権、使用権、決定権、交渉権など様々な権利をオーストラリア国家の上で得ることになり、土地回復申請が数多く提出されることになった。
そして現在アボリジニの土地と精神の結びつきが神聖なものであると全世界中で知られることになり、オーストラリア政府のアボリジニに対する政策は改善されてきているが、白人の国民はまだ完全にアボリジニを受け入れる体制が取れていなく、双方の歩み寄りがオーストラリアのこれからの課題となっている。