アボリジニと白人

  アボリジニの人たちは大昔から外国ではインドネシア、中国、日本、フィリピンなど黒潮文化圏で、大陸内では様々な部族と交流しながら生活してきた。アーネムランドの部族の神話にはマッカサン(インドネシア)、中国、日本人との交流を詩にしたものが現在の儀式でも歌われている。そしてその交流によって部族固有の文化と血を育んでいった。

  実際南オーストラリア、ケープヨーク、西オーストラリア、アーネムランドでは、顔が全然違うし、文化までも全然違う地域もある。そして来る1770年イギリスのキャプテンクックがボタニー湾にやってくるのである。クックは初めアボリジニと交流し、その精神性と生活様式を学び感銘も受けたが、結局はクックのイギリス本国へのレポートがアボリジニ大量虐殺へと繋がってしまったのである。

  実際1616年にもオランダ人のディルク・ハルトクという人物もやってきているがオランダは植民地化へ乗り出していない。

  イギリスは植民地だったアメリカが1776年に独立したことにより、アメリカからの収入が無くなり新しい植民地を見つける必要に迫られ、1788年、フィリップに率いられた流刑囚を含む1200人の集団をシドニー湾へと送り出し、次々と植民地を増やしていった。

  そして1851年、ビクトリア州メルボルンの近郊バララットにおいて金鉱が発見され、白人の人口は激増し、1840年には40万人の人口が、30年後の1870年には160万人まで膨れ上がった。そして労働者の中にはイギリス経由で中国人も混じっていたこともあり、オーストラリア内で白豪主義が生れるはじめる。

  アボリジニ達にとってこの時代は悲惨極まる時代であった。南部の部族はほぼ全滅し、白人の入植当時は30万人だった人口が1866年には8万人になってしまった。しかし、1860年から非人道的行為に罪悪感を持ち始めた人々により、保護隔離政策がとられるようになっていき、政府のキリスト教によるミッションにアボリジニの監督、監視を任せるようになり、アボリジニ達にとって第2変革期となるミッション時代が始まる。

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